一片の曇りもない世界。

様々な分野について書いていきます。

『君だけに伝えたい』 君とは誰なのか

純粋 (であったと思う)な小学生の私は、こう思いました。

 

「君だけに届けたい~~とか、君だけに伝えたい~~

とかいう歌詞の曲が世の中には沢山あるけど、

早く届ければいいのに。直接。はよ。今、君 んところに行けそして伝えろ

なんで「だけに届けたいその気持ちを込めた音源を、不特定多数の人々聞かした

り、売ったりしてるんだ?」と。

 

 

君へこの気持ち伝えたいけど、伝えられないままだ・・

 

直接届ける?でもそんな勇気が出ないよ・・・

 

でもこの気持ち抑えられない!

 

あぁだからこの気持ち、一つの曲にでもするよ・・・!

 

あれ?この曲結構ええやんCDにして売ったろ!!¥¥¥

 

 

こんな感じですか?

なんですかこれは?

君だけに伝えたいピュアな想いさえ資本主義にうっちまったってわけですか!?

 

 

と、思ったわけです。

まあこれは結構誇張した話ですが、

、っていう歌詞でかつその  の対象が誰なのか何なのか読み取れない

曲が多かったんで、それに対する突っ込みを兼ねてこう思ったわけです。

まあ小5の時点で「世の中は金」という健全な資本主義的思考回路が出来ていたので、

大体こんな感じだったと思います(にっこり)。

 

www.clearskyworld.com

 

 

 

で、その後ピュアな資本主義者として成長し

まあ大学生になってから、作曲をやるようになりまして、

まあ歌ものを作曲しようとなったときに、当然歌詞を考えるわけなんですが

まあ

 

」というワードの便利なこと。

 

歌詞付きの曲を考えるときとか

君にィ~伝えたい~ とか自然に出てきましたよ。口ずさんでしまいましたよ。

一体何を伝えたいのかわかりませんが、とりあえず君にィ~伝えたいんですよこの想

 

 

まあ正確に言うと不特定多数の人にィ~広く伝えたいィ~わけなんですが、そうであっ

ても

君たちに伝えたいィ」だと、対等でない感じがするんです。だからソレは使用しませ

ん。

一人の偉い人が大勢の人に向かって伝えたいと言っているような感じがするんです。

たとえるならば、全校集会で校長が生徒に向かって話す感じです。

歌う人と聞く人が対等な関係ではない感じがします。これだと心にグっと来ません。

 

ところがこれを「君に伝えたいィ」になると、一対一となります。

一人の人(歌う人)あなただけに(聞く人)に伝えたい、と言っているような感じになるん

です。

先ほどの例と比べると、グッと距離が縮まり、聞く人はまるで自分のために歌ってくれ

ているように感じられるわけですね。

感じたことがないので憶測ですが

 

というわけで、君に伝えたい 君だけに伝えたい

という、歌詞における『君』という言葉の本質を見た気がしたのでした。

 

 

 

 

 

 

小学生の私、安心して。

『君』っていうのはね、不特定多数の人の心に、届きやすくするための言葉なんだよ。

そう、つまり伝えたい『君』というのは、聞いてくれる人一人ひとりのことなんだよ。

大丈夫。そのメッセージはちゃんと、伝えたい人、つまり聞いてくれている人一人ひと

届いているんだよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そしてみんな、買ってくれるんだよ

 

 

 

資本主義者でした。

 

 

ではまた。

なあに、書きたいことを書けばいいのさ ブログだもの

私なりの意見や考え方を書こうとすると、

まーそれはそれは時間がかかる。かかりすぎた挙句、下書き保存してそのままとかよく

ある。

一体なぜなのか?

それは「他人がどう思うか配慮して書こうとする」というのが理由。

なるべく読んだ人がいやな思いをしないように、一つ一つの言葉を吟味して書いていこ

うとする。

というより、「それは間違っている!」と反応されるのがいやなんだけど。

これはきっと、正論振りかざし(たと思っ)たら総スカン食らった、金の生る木の体験か

ら来ていると思う。金の生る木の記事→

何でも生る木があるとする。あなたは何の生る木が欲しい? - 一片の曇りもない世界。

だからこそ時間がかかるし、納得いく文章が中々書けない。

 

 

 

まあすべての人が納得するような考え方なんてないわけです

私は以前MBTIという性格診断にハマっていました。

そのMBTIによると、世の中の人間は16種類の型にわけられるんですが、

その16種類のどの型の人であれ、逆の考え方をする人がいるんです。多かれ少なかれ。

例えば、革新が正義や!という人もいれば、伝統が正義や!という人もいる。

それを考えるとどんなに「これが正論や!」と言ったとしても、その人とは逆の考え方

をする人から見れば「それは間違ってる!」となるわけです。

これであれば、ある意見を「正義や!」と延々述べたとしても、

「それは違う!」となるわけです。

 

 

というわけで、まあ色々な意見があると受け入れたうえで、

みんなちがってみんないい精神で、書いていきましょう

となればよかったんですが、そうはしませんでした。

じゃあどうしたか?

 

 

みんなちがうんだからなぜそうなるのかの理由を逐一説明してなおかつ『こういう意

見もあるとは思いますが』を多用しなるべく穏便に済ませよう精神で、書いていこう

と思ったわけです。

 

具体的にどういうことをしたかというと、頭の中に私以外の型の人間、つまり15の人格

を創り出し

あれ?この意見はこの型の方から見ればおかしいと思うよなあ、修正

あれ?この考えは逆の型の方から見ると『それは間違っている!』となるなあ、『こ

いう意見もあるとは思いますが』を発動し、穏便に済むように・・・」

ということをしていました。

 

まあ15の人格というのはちょっと盛りすぎましたが、本当に細かいところまであらゆる

視点で見るように心がけてましたおかげで全く筆が進まない

 

ということでまあ今まで不毛なことをしていたんですがもうやめて、

みんなちがってみんないい」精神で、割と自由に書くことに決めました。

 

 

ブログの自由さに気づいたよ

このブログは

有益な情報を読者の皆様に提供する

という、中々立派に見える方針を掲げて書いてきた。

 

だから、基本的には日記や今日のできごと、などの記事を書かないようにして

もし書くとしても「今日気づいた有益なこと」とか、雑学レベルでもいいから

とにかく他人が見ても「オッこれは得した気分!」となるような記事を書くように努め

てきた。

 

しかし、ふと最近こう思った。

有益であるようで、実は大した利を得ない、まさにあって嬉しいな程度の雑学を提供

しているだけなのでは?」と。

 

なるべくそれで終わるような記事は書かないように工夫はしてきた。

読者にとって有益になるような記事を書こう書こうと思いながら書いてきた。

 

しかし、そもそも何が有益なのか、私が決めることではないではないか。

それは読者が決めることじゃないかと気づいた。

だから、どれだけ私が「これは有益だ!」と思うことを書いても、

読者にとってそう思えなければ、読者にとってそれはただの雑学(にすらならない)も

のとなってしまうわけだ。

 

それに気づいた。だから、

有益な記事を書こうとして悶々として、書けねえ書けねえ~言いながら、下書きを書

いては保存して書いては保存して、

っていう不毛なことを繰り返して、結局何も書けないという、よくわからない

ループをやめることにした。

 

そう決めた瞬間、今、私が思ったことを書き連ねただけの文章がある、

という記事が今、量産されている。

果たしてこれは有益なのだろうか、とか、そういう心配は全くせずに、

ただ書きたいことを書いている。

これが私にとって素晴らしく自由で楽しい。なるほど、

ブログというのはこういうものだったのか!

やっとブログの素晴らしさが分かった気がする。今になって

いや、思い出したというべきか。

私は昔、ゲームについての記事を書いていたのだけれども、

まさにこんな感じに、自由に書いていた。それを今思い出した。

筆が止まらない。いや、タイプが止まらない。

うほおおおおおお自由だああああああああ

 

 

というわけで、前々回から言っている通り、

自由に書きたいと思います。あれ前々回そんなこと言ったっけ?まあいいや。

あ、自由に書くとは言ったけども、適当に書くとは言ってない。

持論を書く時はちゃんと論理的整合性は取れてるか、とか、なるべく根拠となるソース

を入れる、とか、そういうところはちゃんとする。

ただ、なるべく自由に書く。面白いように書く。

そのような感じで、これから書いていこうと思う。

楽しいぞ。久々に。これがブログというものか・・・!

 

ではまた。

ブログだからこその自由度

前回、私ブログ史上かつてないほどゆるフワァな記事になり申したけれども、

文章はゆるフワァな割に、チカチカして見づらい

というのも多分、文の上と下↑↓の間隔を限りなく セバスチャン 狭めたのと、

文字の大きさ太さを変えてなかったのが原因だと思われる。

 

ブログというのは本と違って、文字を自由に変えられるのが面白いところ。

であるから、その文字の自由度を活かして、存分に文字の大きさ太さ

などなどを変えて、より読者にわかりやすいように工夫するのが、ブログの醍醐味でh

はある。

だけれども、そもそも伝えるのは言葉であるのだから、大きさ太さ色を変えることな

く、

素のままの文字で読者に勝負を挑みたい(?)、とも思うところ。

まあその辺は書く人によりけり。

私は個人的には、前回の記事を見返して「ああこれは見づらいな」と直観的に思ったの

で、

存分に文字の大きさ太さ

そして画像やら動画やらを挿入して、読んでくれる皆様に私の伝えたいことを伝えたい

と思う。

 

ブログの自由度を存分に活用しよう。

 

どういうブログにするか。

久々に自分のブログを読み返してみたんだけども、

「あれ、自分こんなこと書いたっけ」という記事が結構ある。

その数およそブログ全体のうち3割ほど。結構ある。

 

もし私が政治家であれば「発言を撤回いたします」どころではなく、

「覚えがございません」「そんな発言してません」と言うだろうなあ。

まあ、証拠のV(TR) を提示されれば「あっ言ってましたね」と

素直に認めると思うから、タチが良い(謎)

 

もちろん、このブログで書いていることは ほとんどすべてが しっかりとした根拠と

筆者個人の体験と経験に基づいたものであるから、安心してほしい。

あと持論を書く時には細心の注意を払って、論理的に矛盾がないよ

うに、しっかりと時間をかけて書いているから、安心してほしい。

 

 

でも、だからこそ中々筆が進まない(タイプが進まない)のも事実。

慎重に慎重を重ねて、やっと完成した記事も、

見返したら「ああこれなんか矛盾してない?なんかおかしいな・・・公開するのやめと

こ」ってな感じでお蔵入りする記事も結構ある。

ブログなんだから多少はいいかな?とも思うけど、でもやっぱり書くんだったらちゃん

としたものを書きたいよね、公開したいよね、と思っちゃう。

記事のクオリティを優先するか。それとも

更新頻度を優先するか。

記事のクオリティを高めつつ更新頻度を上げろ?

それ、一番いい方法(確信)

 

ブログってのは後からなんぼでも記事の更新ができるんで、

最低限度のクオリティを保った記事を上げまくって、

後から修正していけばいい、ってやり方もある。

確かにそれなら気楽にやれるんだけども、

とりあえずリリースしといて、何かあったら後から修正パッチ入れますみたいな、

スマホアプリみたいなやり方はなんだかなあと思う。

いや、本来自分はそっちサイドの人なんだけども、

そっちサイドの割と適当な自分がいやなので、真面目にしっかりと慎重に書こうとして

いる感じ。

だから、本来の自分と、理想のなりたい自分とが合致せずに、

悶々としながら記事書いてる感じ。特に持論を展開する記事を書いているときは。

 

ここまで書いてて思ったんだけども、

こうやって力抜いてのほほんと書いてた方が、性に合ってるのかなと思う。

やはり適当サイドの自分が、自分らしい。

 

もう、なんでもありなブログにしてもいいかな。

そこらへんは、そのうち決めますわ。いや決めなくてもいいのか。

まあなんか、面白い感じのブログにする。

 

ではまた。